(投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

「復讐」としてのテロを日本は支援している

  • うさぎ777
  • 2016/12/03 (Sat) 18:49:41
「復讐」としてのテロを日本は支援している

http://book.geocities.jp/japans_conspiracy/02/p002.html#page14A

教科書問題の争点を日本政府は捻じ曲げている。

( http://sky.geocities.jp/datepedia/02/update.html )

( http://book.geocities.jp/japan_conspiracy/0102/p005.html )

( 個人的意見 )

西鶴研究会のブログ、スタートしました

  • 染谷
  • 2015/03/02 (Mon) 02:43:07
西鶴研究会のブログがスタートしました。

http://kasamashoin.jp/saikaku/

ぜひ、ご覧ください。

なお、このブログには本ホームページが持っている情報・機能がほぼ移行されています。よって、近いうちに、このホームページならびに、掲示板を閉鎖する予定です。

よろしくご理解のほどお願いいたします。

ストリューブ先生講演会のお知らせ

  • 畑中千晶
  • Site
  • 2014/04/19 (Sat) 22:48:17
ダニエル・ストリューブ先生の講演会が慶應義塾大学で行われるそうです。本日、詳しい情報を得ましたので、直前のご案内で恐縮ながら掲示板に掲載させて頂きます。なお、申込不要でどなたでも参加可能とのことです。



題目:「物語論の視点からみた西鶴」(日本語)
日時: 2014 年 4 月21 日(月)16 時30 分から18 時
場所: 慶應義塾大学三田キャンパス 東館8 階 ホール (入場無料)


特に、前回の西鶴研究会で議論が白熱した西鶴戯作説について物語論の観点から考察を加える予定でいらっしゃるとのこと、「死なば同じ波枕とや」への言及もあるそうです。西鶴をめぐる議論が国際化されるための、貴重な第一歩になることは間違いありません。

ご都合が宜しければ、ぜひどうぞ。
リンクもご覧ください。


Re: ストリューブ先生講演会のお知らせ

  • 畑中千晶
  • 2014/04/19 (Sat) 22:52:53
リンクはこちらです。

http://satellite.flet.keio.ac.jp/archives/858

27日の研究会、諸々に感謝

  • 染谷智幸
  • 2014/04/03 (Thu) 10:11:41
27日の西鶴研究会は盛況のうちに幕を閉じました。
ご発表いただいた広嶋進氏、ご講演いただいた中野三敏氏には、心より御礼申し上げます。また、ご質問等に立たれた皆さまにもお礼申し上げます。恐らく、38回まで続いてきた西鶴研究会の中でも最も記憶に残る会の一つとなったでしょう。それにしても、時間が足りませんでしたね。もっとご質問やお話しになりたい方が沢山居られたように思いますが、それはぜひ様々な場所にて、今後も議論を展開して欲しいと思っています。

その「今後の議論」ですが、既に忘却散人さんが「西鶴研究会に参加して」と題されてブログに研究会の感想を書かれています。今回の西鶴研究会全体のご報告としても読める種々行き届いたものです。
http://bokyakusanjin.seesaa.net/

この忘却さんのご指摘に関しては、お名前が出ている方からも再論がありましょうが、私から一つだけ述べておきたいことがあります。それは忘却さんも取り上げていた「西鶴は戯作か小説か」の問題です。

私が「小説」を標榜している理由については、リポジトリで述べましたので繰り返しませんが、強調しておきたいのは、「小説」を始めとして明治初期に再定義された言葉、また「哲学」「自由」のように翻訳語として造られた言葉を、その時代の西欧近代化の風潮を嫌うあまり、手放してしまわない方が良いということです。

明治期にノベルやロマンスを、江戸期まで主流だった「カステラ」「クルス」「アルコール」のようにカタカナ表記でそのまま移入したのではなく、漢語を使って翻訳したことについては、昨今、西欧近代化とは別の文脈から再評価されていることはご存知のことだと思います。それは朱子学化、漢文脈、中国化などと様々に言われますが、要するに東アジアの文脈から、この漢語による翻訳を始めとする明治の近代化を再評価する試みです。

もちろん、漢語による翻訳と言っても、言葉によって浅深の度合いが違いますから、一緒くたには出来ません。しかし、こと「小説」に関しては、造語された「哲学」「自由」などとは違って実際に生きた言葉として、それまで東アジアに在ったわけですから、それらの歴史性が軽視された、つまり西欧近代のノベルやロマンスのレベルで捉え過ぎて来たことは間違いないと思います。別の言い方をすれば「小説」という言葉の書記(エクリチュール)を軽視してきたとも言えましょう。

とは申せ、そういう手垢にまみれたことばでなく、オリジナルなことばを使って説明したい。それを広げて行った方がよい、それも分からないではありません。でも、上記の書記(エクリチュール)の問題からすれば、そうした忌避の根底には、西欧への嫌悪だけではなく、中国や漢語への嫌悪が潜んでいる可能性があるかも知れません。私は昔から、同じ東アジアに「小説」という言葉があるのに、なぜ違うことばを使おうとするのか不思議でしたが、中国や漢語への嫌悪ということであれば、腑に落ちる部分も出て来るような気がしています。

いずれにせよ、江戸時代の浮世草子、戯作も東アジアの散文の一つであるなら、中国を中心にした東アジア小説史を洗い直す中で、それらを小説という言葉で説明できないかどうか、一度抜本的に検討してみる価値は十分にあるのではないかと思います。その作業なしにオリジナルを主張するのは、やはりまずいだろうと思います。

また、戯作を俳句や歌舞伎のような形で世界に広げ育てて行く可能性について、忘却さんは主張されていましたが、俳句が国際的なハイクになったと同時に、連俳の機能をある程度捨象せざるを得なかったことについては、井上泰至さんが述べられた通りで、それを忘却さんもご指摘でしたが(季語の要素も捨てざるをえなかったですね)、問題は、俳句や歌舞伎が世界にどう受け入れられているのかがやはり気になるところです。それは詩や演劇の一つとして、まともに受け入れられず、単なるエキゾチックな興味のレベルに止まっていないか気になるからです。西鶴を小説ではなく戯作と言った場合、同じようなことにならないか、そんな危惧があります。

それから、中野氏の今回のご講演については私も多いに啓発されました。特に忘却さんもご指摘の、どんな質問にも丁寧かつ真摯に答えられるその姿勢もさることながら、フランシス・フクヤマまで広範囲に資料を収集されて問題点を指摘し、自説を補強して居られる姿勢は、日頃、小さく縮こまりがちな、私たち近世文学研究者の蒙を十分に啓くものだと感じました。

また中野氏が、岩波『文学』にお書きになったことに加えて、国内的にも国際的にも様々な啓蒙活動を続けて居られることについてですが、特に外国での発表がいかに厄介なものであるかを知っている身としては、正直頭が下がる思いです。その中野氏のご奮闘ぶりに比べて、我々後進の努力があまりに足りないというご指摘も正しいでしょう。それはきちんと反省すべきです。

ただ、その中野氏のご努力については私同様に皆さんもお認めになって居られると思いますし、そのご努力への尊敬と、努力する方向や方法の議論とは自ずと別個であることは言うまでもないでしょう。むしろ、そのご努力を認めているからこそ、みなさん前置きや世辞抜きにストレートに自説を開陳されたのだと思います。個人的な感想を申せば、篠原さんはもちろんとして、木越さんや中嶋さんの言葉も、私にとっては、中野氏の言葉同様にまた感銘を受けるものでした。

いずれにしても、今回の中野氏のご発表は、忘却さんのブログに中野氏の話題が載ったことがきっかけですから、まずは忘却さんにお礼を述べなければなりません。また、そのことが象徴的ですが、今回の西鶴研究会は、西鶴以外を主に研究をされている方々も多くご参加いただき、また多くご発言をいただきました。これは西鶴研究会としては理想的な形だと思っています。

そうした形になった点も含めて、ご発表いただいた中野氏や広嶋さんを始め、ご参集いただいた皆様に改めて感謝したいと思います。(了)

「西鶴戯作説」の議論に望みたいこと ―司会者の立場から

  • 有働 裕
  • 2014/03/04 (Tue) 14:26:04
 第三十八回西鶴研究会での、中野三敏先生をお迎えしてのご講演「西鶴戯作者説再考」の日がいよいよ近づいてまいりました。先だって中野先生が『文学』2014年1月号にご論文を発表されましたことは、この機会に問題の所在を復習しておきたいと考えていた我々にとりまして、誠に有難いことでありました。それに伴ってはやくもあちらこちらで議論がヒートアップしており、さらに篠原進先生が笠間書院の「西鶴と浮世草子と研究repository」にご意見を掲載して下さりましたおかげで、問題の焦点化がなされたように思われ、白熱した論議となることが期待できます。当日の司会を力不足ながら引き受けました私としましては、前もってより多くの皆さんからご意見を給われれば幸いと存じます。
 さて、そのような司会者としての立場から、お願いいたしたいことが二点あります。
①「戯作」という言葉には研究者それぞれの思い入れがあると思います。ただ、「戯作」の定義論争に時間は割きたくないというのが私の考えです。中野先生が『文学』1月号の御論で定義された、「㈠現実の肯定を核とし、現実・権力・政治への批評は全く含まない ㈡パロディを主とした弄文性=表現第一主義 ㈢内容的には教訓と滑稽が第一義」が、この場での「戯作」の定義とした上で、西鶴作品をそのような概念で語ることの有効性や問題点を論じていければと考えます。従いまして、「いや、そもそも戯作というのはそのように限定できるものではない」といった御主張の方もいらっしゃるとは思いますが、それはまた別の機会にご論議下さるようお願いしたいというのが第一のお願いです。
②これは中野先生にもお願いしたいことなのですが、観念的な論争を避け、出来るだけ具体的な作品や論文を俎上に載せて論議を進めたいと考えております。中野先生のご論文は論旨明快で、御主張は依然『近世文学俯瞰』にお書きになったものからほとんどブレるところがなく、なおいっそう具体性を備えたものとお見受けしました。ただ、「近代主義に毒された文学的な読み」とは、たとえば誰の書いたどのような論文をさすのか、どの記述の解釈があやまっているのか、もう少し踏み込んでいただければと思いました。もはや典型的な「近代主義」を標榜する研究者は、たとえ近代文学会においても極めて少数であると私は感じています。この件は、フロアからご意見・ご質問されるかたにもぜひともお願い申し上げます。

さて、付け足しではありますが、中野先生が『文学』のご論文で私の拙い論を二回も引用して下さいました。誠に光栄ではありますが、いずれも注がありませんでしたので、以下に記しました。
①p141下段1行目 その批判として書かれた有働裕氏の「仁政に対する西鶴」には…
→「仁政に対峙する西鶴―『本朝二十不孝』と『懐硯』の「諸国」―」『国語国文学報』第67集 平成21年3月15日 愛知教育大学国語国文学研究室発行
②p145下段終わりから4行目 かつて読んだ有働裕氏の引かれた一文に
→「『本朝二十不孝』研究史ノート(二)―「戯作」説の展開―」『国語国文学報』第63集 平成17年3月15日 愛知教育大学国語国文学研究室発行

先日篠原進先生からお問い合わせがあったとき、②とお答えすべきだったところを①とお伝えしてしまい、誠に申し訳ありませんでした。先の篠原先生の文章にも、終盤の「その先を考えるのはいけないことですか」のところで中野先生が引用を誤ったかのようなご指摘がありますが、すべて私の粗忽によるものです。あらためておわび申し上げます。

小池正胤先生 訃報

  • 有働 裕
  • 2014/01/27 (Mon) 00:13:41
西鶴研究会、会員のみなさまへ
小池正胤名誉教授が1月26日にお亡くなりになったとの訃報が、黒石陽子氏より先程ありました。
今後の予定は、1月30日(木)19:30からがお通夜、翌日31日(金)13:30からが御葬儀。
いずれも場所は、上智大学の聖イグナチオ教会主聖堂と聞いています。
取り急ぎご連絡申し上げます。
有働 裕


次回の西鶴研究会について

  • 染谷
  • 2014/01/09 (Thu) 11:13:25
次回の西鶴研究会、
(3月27日(木)午後2時より、青山学院大学にて)
の概要が決まりました。

発表と講演の予定です。
・発表
広嶋進氏「『西鶴置土産』神話の形成」(仮題)
・講演
中野三敏氏
(題目はこれからですが、西鶴戯作者説をめぐる問題についてご講演される予定です)

2月中旬にご案内を差し上げますので、よろしくご参集のほどをお願いいたします。

あけましておめでとうございます

  • 染谷智幸
  • 2014/01/07 (Tue) 00:07:17
明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。

12月21日(土)の俳文学会東京例会、浮世草子研究会との共催による「シンポジウム西鶴と俳諧」はたいへん有意義な会となりました。ご発表された四人の方々、また質問に立たれた多くの方々、準備に奔走された深沢眞二氏、二次会の設定まで準備をされた佐伯孝弘氏他みなさま、本当に有難うございました。

発表された内容については、いずれ、それぞれの方がお纏めになるでしょうから、ここではそれについて触れません。というか、実に多岐に亘り、興味深い内容が示されましたので、ここで纏めきれないというのが正直なところですが、いずれにしても、こうした研究会のコラボを第二弾、三弾と行えたら、更に有意義かと思います。

なお、懇親会の席の最後に、廣木一人氏から、中世の連歌から続く連衆の歴史の中から西鶴の俳諧、とくに独吟は外れているのではないかとの重要なご発言がありました。こうした広いパースベクティブからの西鶴俳諧への視点は、今回のシンポではあまり問題にならなかったように思います。

廣木氏の連歌・俳諧を一貫して捉えるお考えは、三年前の岩波『文学』5・6月号、特集「十七世紀の文学」で述べられ、私も昨今、リポート笠間55号の拙文でも取り上げさせていただいたように、俳諧史はもとより、西鶴の俳諧を考える上でも極めて重要な視点だと思います。

今回、時間がなかったので、私は質問できませんでしたが、西鶴俳諧を考える場合、最も重要なのは、西鶴俳諧の「可能性の中心」(柄谷行人のターム)は何処にあるのかだと思います。結局、西鶴俳諧の持つ可能性は、西鶴小説の中に吸収されて解消されてしまうものだったのかどうか、ですね。

私はそうでなかった気がします。気がするというのは、不勉強で西鶴の俳諧についてあまりじっくり考えていないからですが、廣木氏のご発言とこの点はオーバーラップしてくるようにも感じています。こうした点を、時間があれば、ご発表された四人の方々、会場の皆さまにお聞きしてみたかったところです。いずれ議論できればと存じます。

シンポジウム西鶴と俳諧

  • 染谷智幸
  • 2013/11/29 (Fri) 21:10:12
8月の例会の折にもお話ししたように、12月21日(土)に俳文学会東京例会、浮世草子研究会、西鶴研究会共催の「シンポジウム西鶴と俳諧」が開かれます。

時間は午後2時から5時半。
発表者は深沢眞二、水谷隆之、中嶋隆、篠原進の四氏です。

懇親会も5時半から渋谷のVINOで行われます。
参加希望の方は12月9日まで、染谷へご連絡を。

齋藤孝の永代蔵2

  • 染谷智幸
  • 2013/10/25 (Fri) 04:13:17
この本が出てすぐに私も読みました。

確かに、石塚さんの指摘されるようなところはありますが、現代の草食性?に対峙して、西鶴の肉食性を高らかに謳ってみせているところなどは、さすが『声に出して読みたい日本語』などを書いた齋藤氏の嗅覚の良さ、切り込みの上手さを感じました。(こうした切り込み方は、西鶴を紹介する時にも使えるのではないかとも思います)

また、石塚さんの「こういう方向性が今の世の中」に「受け入れやすい」のか、ですが。

本書の副題に「井原西鶴に学ぶ「金」と「色」」とあって、明治~昭和初期の西鶴論(田山花袋など)を連想させ古色蒼然としているわけですが、やはり西鶴というと、このリアリストに戻ってしまうのかなと感じました。

周知のように、この戦前のリアリスト像を克服すべく様々な取り組みが戦後から現代にいたるまであったわけですが、それが世間に一向に浸透していない。この点が齋藤氏の著書ではからずも明らかになってしまったということなのではないでしょうか。

齋藤氏に西鶴研究の勉強不足を指摘することは簡単ですが、そのことよりも、上記の浸透不足を我々の問題として受け止めることの方が大事だと思います。

Re: 齋藤孝の永代蔵2

  • 石塚
  • 2013/10/29 (Tue) 16:24:30
さすが染谷先生の前向きなご発言、ありがとう存じます。

浸透していないことを自分たちの問題とすべしとは、

まさに現代の日本の古典文学界へのメッセージとも受けとれました。

リアリスト西鶴の印象をぬぐいきれるだけの強烈な「読み」の旋風が巻き起こらないことには、巻き起こさないことには、現在の閉塞感を打開できないと言うことですね。